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真田幸村公遺児阿菖蒲の墓

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年2月3日更新

 阿菖蒲の墓は夫君定廣と共に、愛宕山山麓の田村家の墓地に建てられています。
 三春城主・田村家は、30代宗顕(むねあき)のとき豊臣秀吉によって、天正18年所領を没収され滅びました。
 宗顕は『牛縊』(うしくびり)と改姓して、伊具郡(宮城県)に身を潜めていましたが、伊達政宗公の正室・愛姫(めごひめ)の命により、片倉重長が宗顕の嗣子・定廣と共に、白石に招き蔵本・勝坂屋敷に住まわせました。
 この時、田村父子は29代清顕の墓を建て、田村家一族の墓所を定めたと伝えています。
 その後、定廣は片倉金兵衛と改名し、少納言喜多子(片倉景綱の異父姉)の苗跡を相続し、幸村の遺児・阿菖蒲を妻として仙台藩に召し抱えられました。
 夫婦は没後、この地に葬られています。


阿菖蒲の墓の画像